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「案内板の設置」 平成19年5月19日


案内板の設置作業を実施しました。                           (2007/05/19) 

案内板設置(東5丁目公園) 案内板設置(東5丁目公園)

内藤以貫
1625−1692


  儒者諱は就篤,一名は希顔,字以貫,六左ェ門と称し,閑斎・楽山また白石山人と号す。長州の産にして伊藤博文強記によれば「能く詩を賦し文を属し,又頗る撃剣に長ず。人となり温柔寡慾,応対辞令を能くす。」とある。

  慶安3年(1651年),江戸にて二代伊達忠宗の師として招かれ,300石を賜る。藩主の知恵袋として寵愛され,二代藩主忠宗公,三代藩主綱宗公,四代藩主綱村公まで仕えた。


  陽明学の流れをくむ儒学者で,『貞山公年譜』『義山公年譜』を作成した。漢詩を得意とし弟子の須藤知平の編集による『閑斎詩集』として残されている。

  書道家としても有名で,日清戦争の戦後処理として明治18年春,伊藤博文が全権大使として中国に赴いた際,清国代表の政治家「李鴻章」によって以貫の書を絶賛し所望されたことから,以来評価が高まり珍重された。

  晩年,多病,致仕して白石山房(西田中松下:現住吉台東五丁目)に寓居し,烟霞泉石の間吟詠し以て終焉をトす。元禄5年(1692年)10月21日,没す。享年68歳

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  内藤以貫は長州(現:山口県)に生まれ,二代藩主伊達忠宗公の招きで来仙,藩の儒者(倫理・道徳を説く政治家)として仕え,300石を賜りました。忠宗公や三代藩主伊達綱宗公の侍講(先生)となった。読書を好み,文武両道に秀で,温厚な人格で,礼儀礼節を備え,漢詩にも長け,書道家としても著名であった人物といわれております。

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                      内藤以貫の墓 管理保存会

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